高麗を踏襲して開城を首都

高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽へと遷都が行われた。

その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。

李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。

儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。

風水思想とオンドルの効果を高める為に半階建てとも言える低い家が建てられていた。

漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可無く建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。

首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた。

また汚水処理の施設や対策は1905年の第二次日韓協約の直前の10月までに行われず、韓国政府と皇太子の寄付をもってようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。
update:2010年02月22日